鷲尾愛宕神社
御祭神
【愛宕神社】
火産霊神(ほむすびのかみ)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
【宇賀神社】
宇賀魂神(うが みたまのかみ)素戔鳴尊(すさのおのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
Our Story
ご縁起
黒田忠之公ご再興より約390年の歴史
当鷲尾神社は愛宕山(旧称鷲尾山)山上に鎮座し、古くは鷲尾神社と称し、社伝によれば、凡そ1900年前、第十二代景行天皇の御代(みよ)に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の二柱を鷲尾山に奉祀(ほうし)したことを創始する。
降って第六十二代村上天皇の天暦九年(956)には、姪浜の住侶(じゅうりょ)浦氏・浜氏が社殿の破損を憂い浄財を募り社殿を改装、
さらには領田の寄進も受けた。 鷲尾山は地主神(じぬしがみ)として別当坊東林寺(べっとうぼうとうりんじ)が代々奉仕していたが、その後、鎌倉、南北朝、室町と時代が経過し、幾多の戦乱に遭い、宝器・文書、神領は散滅してしまい、僅かに東林寺の社殿を保つのみであった。
その後寛永十一年(1634)福岡藩二代藩主黒田忠之公(くろだただゆきこう)が、山城国(京都)の愛宕権現白雲寺(あたごごんげんはくうんじ・現愛宕神社)より
御祭神、火産霊神(ほむすびのかみ)伊弉冉尊(いざなみのみこと)二柱を勧請奉祀し、社領を寄付し、宮司坊圓満寺(ぐうじぼうえ んまんじ)を開創して奉仕に当たらせた。
愛宕権現勧請に至ったその背景には、当時の黒田藩の内訌(ないこう、いわゆる黒田騒動)によるところが大きい。
幕府の嫌疑を受けた忠之公が幽居(ゆうきょ)の難に遭った折に、山城国の愛宕権現に祈願したところ、奇しくも間もなく青天白日(せいてんはくじつ)の身となり、帰藩在城を許された。これにより愛宕の祠を中央に祀り本社とし、鷲尾神社は境内の一隅に移し東林寺(とうりんじ)と圓満寺(えんまんじ) は併合され、また、鷲尾山は愛宕山へとその名を改めた。
明治三十四年(1901)九月二十七日官許(かんきょ)を得て鷲尾神社・愛宕神社両社を合祀し、以降正式名称を鷲尾愛宕神社と 称することとなる。 社格を大正二年(1913)三月十九日村社に定められ、昭和六年(1931)七月十五日郷社に列し、さらに昭和三十四年(1959)には神社 本庁指定別表神社に列せられた。